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母<未完>

 明子にとって十五歳年上のその人は家族のような、家族でないような、でもとても大切な人だった。

 明子の父は実戦はあまり強くないが指導力に優れた棋士だった。弟子は多くいたが例外の一人を除いて全て通い弟子だった。その例外が塔矢行洋であった。だが、父にとって行洋は弟子ではなく、まずは恩人の忘れ形見であり、恩人の亡きあと養育を任された大切な人であった。行洋がこの家に来たのは十歳の時で勿論、明子はまだ生まれていなかった。父は行洋に対しては常に敬語を用い、今風な食卓を使わず個々膳で食事をするこの家で最上席に座らせ、自分よりおかずの種類を多くするよう母に命じていた。父が行洋に囲碁を教えたのはあくまで教養・趣味としてであり棋士にするような忘恩なことはできなかった。だが、行洋は囲碁を習いはじめると一年も経たない内に明子の父を上回り、二年たつ頃には父の弟子の中で当時何人かいたタイトルを持っている棋士たちと互角の腕になっていた。棋士になることを行洋は希望し、明子の父は条件を付けた。一つは大学を卒業すること。中学・高校では学年試験でベスト十にはいること、大学では全ての授業でAを取ること。ベスト十から落ちたとき、大学でAを取れなかったときは次の学期の手合いはすべて欠席し学業に専念すること。行洋はこの条件をクリアし、大学を卒業するまで病気以外で不戦敗になることはなかった。

 幼い頃の明子にとって五つ年上で自分を邪険に扱う小さな兄と違って、行洋はいつもやさしくて頼りになる大きな兄だった。明子の一番古い記憶はずっと病に伏せていて入院していて一緒に遊べなかった行洋が治って退院してきたと聞き行洋の部屋に行ったら両親が土下座をして「明子のせいで申し訳ありません。亡くなった塔矢様にどの面下げて会えましょうか。」と行洋に謝っている姿であり、
「お医者様にもう駄目だと言われたのに、生き返ることができたのは皆さんの看病のおかげです。どうぞ、顔を上げてください。」と応えている行洋だった。

 行洋は大学を卒業すると親が残した家に帰っていったが二日に一度は明子の母が食事などを運び身の回りの世話をしていた。その時明子もついていって行洋と遊ぶのが楽しみだった。明子が中学生の時だった、家族だけの場で「明子が行洋さんにお多福風邪をうつしたときは大変だった。」と兄が言うと普段は直接には子どもをしかることのない父が「登」と一喝し、兄は口をつぐんだ。部屋に戻ったあと明子は兄に尋ねたが兄は何も言おうとはしなかった。大人のそれも男性が高熱を出すとどうなるかをクラスメートのうわさ話で明子が知ったのは高校生の時だった。明子は顔色が変わってゆくのが自分でもわかった、具合が悪くなったと早退し母を問いつめた。あとから般若のようだったと言われるほど明子の形相は変わっていた。とうとう母の口からことの顛末を聞いた。「あなたが幼稚園でもらってきたお多福風邪を行洋様にうつしてしまって。あなたは一週間もしない内に治ったけれど行洋様は四十度以上もの熱が一ヶ月近く続いて。」「お父さんは終戦直後、餓死寸前のところを塔矢様に助けていただいて、棋士として身が立つようにして下すって、この家も塔矢様がお父さんに下さった家なのよ。」「塔矢様も、奥様も、お嬢様も亡くなってしまわれて。行洋様を立派にお育てして塔矢家を再興していただくはずだったのに。本当に最後のお一人になってしまうなんて」母は泣き出してしまい、明子は放心状態だった。大好きな大きな兄、三十になっても独身なのをからかい、早くお兄ちゃんの子どもがみたいとせがんだのは自分だった。自分がそれを奪ったのに咎めもしないでいてくれた大好きな兄。明子が放心状態から戻りまずしなければと思ったのは行洋に謝ることだった。

 行洋の家に行くと行洋は食事中だった。居間に通されたが障子越しに食卓が見えた。昨日の家の夕飯と同じだった。おかずを暖めた気配はなく、ご飯も冷やご飯のようだった。唯一湯気がでているのはインスタントらしいお吸い物だけだった。このひとはこの十年近くいつも一人でこんな冷たい食事をしていたのだ。自分のせいで。本当だったらとっくに暖かい家庭を築けるはずだったのに。そう思うと申し訳なくて涙が止まらなかった。湯飲みを持って行洋が居間に戻ってきた。「すまないね。お湯の沸かすのに少し時間がかかってしまって。明ちゃん、どうしたんだいこんな時間に。」「ごめんなさい、お兄ちゃん。ごめんなさい。」それしか明子は言えなかった。その様子から見て取ったのか「誰かから僕の病気のことを聞いたのかい。」それは、いつもと変わらないやさしい口調だった。「僕はね、これは碁に精進しなさいという碁の神様からのプレゼントだと思っているんだ。」そんなのは嘘だ、碁の神様がいたらこんなに優しい人にこんな食事とは言えないものを与えるはずがない。
(註:電子レンジがまだ普及していない時代の話しです。)

 次の日から明子はせめておみおつけとご飯は温かいのを食べてもらいたいと家から飯ごうと鍋を持って行洋の家に行った。だが家でもほとんど台所に立ったことが無く、学校の調理実習くらいでした料理をしたことのない明子にガスでご飯を炊くのは至難の業で水加減を間違えたらしくお粥になっていた。みそ汁も出汁のことをわすれて味はみそだけ、具も切ってはあるがつながったままのネギと若芽というひどさだった。行洋も両親も明子がそのうちあきるだろうと思っていたようだが一ヶ月以上続いた。まず、根を上げたのは行洋だった。明子の料理の腕は一ヶ月経っても進歩はなかった。だが、行洋が我慢できなかったのは別の理由だった。「明ちゃんはまだ学生なんだから、まず学校にきちんと通うことが第一だろう。」「学校が終わってから来ているし、私はお兄ちゃんのそばにいて、温かい食事をして欲しいだけなのよ。」と明子は納得しなかった。明子の記憶でははじめて行洋と言い争ってしまった。何を言っても納得しない明子にとうとう行洋は本当のことを言ってしまった。「私は子供を作る力はないかもしれないけれど、男として欲望がないわけではないんだ。このままだと、明ちゃんに何をするか自分でもわからない。だから、頼むからもうここには来ないでくれ。」「私がそれでもいいって言ったら」「だめだ、明ちゃんは学校を出たらちゃんとした人と結婚するんだ。頼むからもうこないでくれ。」

 泣きながら家に帰ると行洋から電話で頼まれて、行洋には絶対服従の両親からも塔矢家への出入りを禁止されてしまった。ただ、行洋は両親には料理の腕のことを理由にしたので料理の腕が上がれば行洋に取り次いでくれる言質は取った。
「母さんと同レベルでも駄目だ、行洋様のお口に入るものだからプロ並みでないと」
明子はそれまで文学部希望だったのを栄養学に切り替えた。文系から理系への変更は苦しかったが行洋を励みにがんばった。大学在学中に調理師免許も取った。

 最後にこの家を訪ねてからもう五年以上たった。学生時代も眺めるだけならと、せめて遠目でも行洋の顔を見たくて何度もこの街を訪れた。行洋が料理のことを理由にしたのを逆手に取り栄養士と調理師の免許を取った記念に行洋に食事を作りたいと父親を通して頼んだ。父親の頼みなら断れないだろうと言う計算だった。多分、最後のチャンスだ。気を散らしたくないから二人きりと言うことも頼んだ。食材は吟味して選んだ。調理用具や皿は母が料理を届けるときに頼んで少しずつ運んでもらった。玄関の前で深呼吸して戸を開けた。行洋は四十前なのにこのあいだ街で見かけたときよりも白髪が増えたようだった。「明ちゃんはすっかり変わったね。街ですれ違ってもきっとわからないよ。」
「七時頃にはできあがる予定です。できたらお呼びしますから、普段の通りなさっててください。」

 調理が終わり、行洋に座ってもらい給仕した。行洋は残さず全て食べてくれた。
「とてもおいしかったよ。昔とはすごい差だね。」
「じゃぁ、ご褒美をちょうだい」
「何がいいのかな。あまり女性の欲しがるものはわからないんだがバックとかかな」
「結婚して下さい」
行洋の顔色が変わり、表情が険しくなった
「だめだ、明ちゃん。明ちゃんはちゃんとした人と」
「いやよ、お兄ちゃんじゃなきゃいやなの。どうしても駄目だって言うんなら私が子宮を取るわ。そうすれば私だって子供が産めなくなるんだからいいでしょ。」
「本当に私でいいのか」行洋の声は震えていた。
「あなたじゃなきゃ駄目なんです。」
明子を待っていたのは熱いべーぜと抱擁と塩味だったがなにせ二人とも経験がないのでどうすればよいかわからなかった。明子がかろうじて記憶の隅から引っぱり出してきた言葉があった。
「昔、私に何をするかわからないから帰れって言ったでしょ。その何かをして」

 翌朝、一人で帰ると言った明子に行洋は無断外泊させたのは自分なんだから一緒にゆくと言って聞かなかった。家に帰ると学生時代は連絡してあっても友人の家に外泊すると怒った顔のまま庭で娘を待っていた父が憔悴しきった顔で玄関で待っていた。
 行洋を応接間に案内するといつものように下座に着こうとした父親を制止し、行洋が「今日はお願いがあって参りました」と下座に着こうとすると父親はいつの間にか入ってきた母親と並びさらに出入り口に近い方に移り
「私どもは何があっても光洋様より上座に着くわけには参りません。」
「では、上座からで申し訳ありませんが、お嬢さんを明子さんを私にいただけませんでしょうか。」
「ふつつかな娘ですがよろしくおねがいいたします。」

 式は身内だけで行った。

 新婚旅行から帰った明子を待っていたのは掃除をはじめとする母の特訓だった。実の母だけに容赦がなかった。

 兄夫婦のところに二人目の子供が産まれたのは明子が結婚して半年ほど経った頃だった。あいにくなことに兄嫁の実姉が一ヶ月前にはじめての出産を向かえていて実家ではそちらにかかりきりになってしまうため今回、兄嫁は婚家である明子の実家で出産を向かえることになった。退院の翌日に行洋と見舞いに実家に行った。義姉も赤ん坊も寝ていて顔だけ覗いた。明子はもっぱら二歳の姪と遊んでいた。両親や、兄・行洋はいつの間にか明子が生まれたときのことを話していた。
「あまり憶えていないけどすごく悲しかったのは憶えている。母さんの優先順位は行洋さん、父さん、お弟子さんで最後がオレで、明子が生まれたらさらに優先順位が下がって。母さんと話ができるのは幼稚園の行き帰りだけだったのに、母さんがおんぶしてる明子がよく泣いてその時間もなくなって、自分は母さんにとってもういらないんだろうな。とか思っていたら行洋さんが遊んでくれるようになって、木登りとかメンコとかベーゴマ教えてもらって」
「この家に来たとき登君は産まれたばかりで弟ができたようで嬉しかったけれど、どう接したらいいかよくわからなくて、第一言葉が通じなくて。幼稚園に通うくらいから「ああ、こう言いたいんだな」とわかってきたからちょうどタイミングが良かったんだよ。」

 このとき行洋が対局などで外泊するときこれまでは明子は実家に泊まっていたが結婚して半年も経つのだから留守を守れないようでは困ると泊まりに来ないように母に言われてしまった。

 自分が外泊の時は緒方に来てもらえばいい。そう言ったのは行洋だった。行洋の様子がおかしくなったのはこの頃からだった。夜、明子の方へ手を伸ばし掛けては止める。明子が行洋の方へ移ろうとすると背中を向ける。こんな事が続いていた。夕飯の片づけも終わり明子が居間に戻ってくるとお茶を飲みながら夕刊を読んでいた行洋が唐突に「子どもが欲しくないか」そう言って明子に見せたのは男性不妊症の記事で「AID(非配偶者間人工授精)」や里子制度について紹介されていた。
「いや、なんでもない。今晩は並べたい棋譜があるから、先にやすんでなさい。」
その夜、明子は行洋が寝室に戻ってくるのを待っていたがいつの間にか寝てしまい、朝になり目を覚ますと隣の布団には休んだ形跡がなかった。

「別れてくれないか。私はどんなに明子を抱いても、子どもはできないんだよ。今のままでは自分の欲望を解消するために明子を抱いているだけじゃないのか。明子は若いんだから、今からでも遅くない、離婚して他の男と再婚すれば子どもができるよ。」

「私はあなたと一緒にいたいから結婚して下さるようにお願いしたんです。子どもが欲しくて結婚したんじゃないんです。」

「緒方君ではどうだ。」
「何がですか。」

「子どもの父親だ。明子、緒方君との間に子供を作って私の子どもとして産んでくれないか。」

「何を仰っているんですか。どうしてそんなこと。第一、緒方さんはまだ子どもですよ。」

 いつの間にか週に何度か夫婦の間で同じ様な会話が交わされるようになった。そんな夜は行洋は自室に籠もって寝室に戻ってこなかった。三度目からは明子は行洋の部屋へ行洋の寝具を延べたが、行洋はそのようなとき、明子がいないかのように振る舞った。

 行洋が地方に泊まりがけでイベントの仕事に出かけ、いつものように緒方が泊まりに来た。夜、気が付くと雷が鳴っていた。明子は雷が苦手でだが行洋に抱かれていれば安心できた。今晩、行洋はいない。隣の部屋にいる緒方に声を掛けた。明子にとって緒方は弟みたいなもので何も考えていなかった。手を握ってもらえれば安心できるような気がしたそれだけだ。その時、近所にでも落ちたのかすごい音がし、雨戸の隙間から庭がはっきり見えるくらいの明るさになった。明子は思わず緒方に抱きついてしまった。それが最後だったのか雷は遠くへ行ったようだった。明子は緒方に抱きついていたことに気付いて「ごめんなさい」と謝って離れようとしたときそれに気が付いた。子どもだと思っていた緒方が男だと気が付いたとき明子の中で何かが外れた。

 翌朝、明子は何もなかったかのように振る舞った。そうしなければ自分を保てなかった。緒方はいつもは行洋を待つのに朝食を取るとすぐに帰っていった。明子を恐ろしいものでも見るような顔つきで。

その日行洋は昼過ぎに帰ってきた。
「お帰りなさい。」
「緒方君はどうしたんだ。」
明子の様子がおかしいと思ったのか
行洋は
「何かあったのか。」
「ゆうべ、雷がひどくて。気が付いたら」
「もう、いい」
行洋はわかってしまったらしかった。
「ごめんなさい。」
明子は立ちつくして涙を流しはじめた。

 その明子の身体が急に抱き上げられた。行洋の顔が間近にある。今まで見たこともないような厳しい顔をしていた。連れて行かれたのは寝室だった。行洋は屈み込んで明子をおろすとそのまま明子のブラウスを引き裂き、スカートを引きずりおろした。明子はこんな行洋は見たことがなかった。行洋は明子がどんな間違いをしても今までは笑って許してくれた。初めて行洋を怖いと思った。そこから先の記憶はなかったが身体が溶けるような感覚は憶えていた。

 明子が目を覚ましたのはもう夜中を過ぎた時間だった。寝間着を着て寝具にくるまっていた。気を失っている間に風呂に入れられたのか髪は湿っていて、身体はさっぱりしていたが、身体中に鬱血した痕があった、痛みを感じなかったので不思議に思ったが何の痕か気づき、羞恥で全身が赤く染まった。行洋を探すと自室で頭を抱えていた。明子は声を掛けられず、そのまま寝室に戻っていった。

 それから行洋は自室で休むようになった。

 二度ほど行洋のいる日に緒方が来て離れに泊まっていった。そして、また行洋が泊まりで出かける日が来た。行洋は緒方を離れに泊めるように言って行ったが明子は夫婦の寝室に泊めた。これは明子の賭だった。

 行洋は緒方の前では何も気付いていないかのように振る舞っていたが、緒方が帰ると昼であろうとかまわずそして、普段と違って荒々しく明子を求めた。明子は普段の行洋からは与えられることのない溶けるような感覚に沈み込んでいった。緒方を抱いているとき感じるのは炎だった。自分の身体が炎になったように燃えているのを感じた。明子は行洋が望んだように子どもが欲しくて緒方を抱いているのではなかった。緒方が帰ったあと行洋に溶かしてもらうために緒方を抱いていたのだった。

 三年後、緒方は高校を卒業し碁に専念することにし、明子は妊娠した。受胎したのは多分三月で、この月行洋は翌月のアメリカへのミッションを控えてスケジュールの前倒しのため週に一回から二回外泊が続き、緒方が泊まっていった。明子にとってこの子は行洋の子どもでなくてはならなかった。一度何かの弾みで行洋が自分の子ではなく緒方の子どもだと言ったとき、情緒が不安定になっていた明子は発作的に台所の包丁で自殺を図ろうとした。

(未完)
2003 年 12 月 06 日作成
文 著作権:管理人

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