男 |
背中から腰への美しいラインが母親そっくりだった。いままでそんなに似ているとは思っていなかったのに。穏やかに自分の横で眠る黒髪を見ながら憶えたのは満足感と軽い後悔だった。そのことに自分でも驚いていた。いままで躊躇していたことが間違いだったのではないか、そう思った。この感情には既視感がある。そうだ、十五年前のあの日も同じように思った。 師匠が結婚をするまで、緒方は夜遅くまで行洋の研究につきあうことがしばしばあり、そのまま塔矢邸に泊まることも多々あった。しかし、師匠の行洋が結婚してからのこの半年は新婚家庭に対する遠慮もありどんなに遅くなっても帰宅することにしていた。だが、夕飯時に夫婦二人からこれからは遅くなったときは前と同じように泊まってゆくことを勧められた。 十二時を回り、研究も一区切りつき今日はお開きにすることにした。行洋は読みたい本があると言うことでそのまま自室にいた。緒方は歯を磨こうと洗面所に入ると「あなた、タオル忘れてしまったので取ってきて下さらない。」と浴室の扉が開いた。止めるまもなく全裸の夫人がそこに立っていた。夫人はそこに立っているのが自分の夫ではないことに気付いて羞恥のためか全身が赤くなり慌てて扉を閉めた。緒方も慌てて洗面所からでて行洋の部屋に行き夫人からの伝言を伝えた。いままで泊まっていた部屋は夫婦の寝室となっていたので緒方は隠居所として作られた離れに今晩は泊まることになっていた。 既に床は延べられており、着替えを持ってきていないと言ったせいか脇の乱れ箱の中には新品の浴衣や下着・スエットの上下が置かれていた。離れには洗面所とトイレがついており、洗面所はお湯もでるようになっていた。「最初からこちらを使えば良かったのだな」と歯を磨き、タオルをお湯に浸し全身を拭いた。「二十三歳だっけ。先生と十五違うんだ。」と口にしながら無意識に自分とは七つ違うと計算していた。 そのまま床に入ったが、十六歳には刺激が強すぎたのか脳裏に夫人の裸体がちらつき眠りについたのは東の空が明るくなり始める直前だった。 翌朝、朝食の時に夫人に「昨日は驚かせてごめんなさいね。」と謝られたが夫婦とも気にはしていないようだった。このとき行洋に頼まれたのがタイトル戦などで自分が留守になる時この家に泊まってもらえないかと言うことだった。 二週間後にさっそく行洋がタイトル戦のため泊まりがけで出かけることになり学校のあと一旦家に帰り着替えと弁当を持って塔矢家に向かった。 鍵は弟子になったとき渡されていたので玄関を開けようとすると誰もいないはずが鍵が開いていて家の奥からは物音がした。物音は奥の納戸から聞こえてきた。泥棒かと焦り忍び足で奥に向かうと聞こえてきたのは夫人のハミングであった。 この部屋を使って欲しいと通されたのは夫婦の寝室と襖一枚へ立てた隣室だった。弁当を冷蔵庫に入れようと手にすると「それなあに?」と尋ねられ「夕飯の弁当です。留守番が火事を出したら駄目だからと母が持たせてくれました。」とこたえると「あら、いやだ私つくるのに」夫人もいままで通り実家へ帰ると思っていたのでたずねると「兄のところに子供が産まれて、実家に帰れなくなったのよ。それで、一人だと夜怖いから緒方さんに泊まって下さるようにお願いしたのよ。」 この女性と一晩・二人っきり。自分は先生からも夫人からも安全牌(=子ども)と思われているんだろうな。と自覚したした。でも、そう思われたからこの女性のそばにいられるのだともおもった。 それから二週に一度くらいのペースで緒方は塔矢家に泊まるようになった。行洋が戻ってくればすぐに検討の相手をできるのでとても勉強になった。だがそれ以上に男三人兄弟の次男で、中学から男子校の緒方にとって行洋がいない夕飯のあとにする夫人とのおしゃべりやゲームなどが楽しみであった。行洋からまるで姉弟のようだと言われるようになっていた。 緒方がそれに気付いたのはいつぐらいからだろう。夜中に隣室の夫人の部屋から押し殺したような声と寝返りを打っているような気配を感じ、そのあと夫人は部屋を出て浴室へむかう。シャワーを使っているような音がかすかにして夫人が戻ってきて床に入る気配がする。そのあとは何の気配も感じない。 緒方が塔矢家に泊まるようになって四ヶ月ほど経ったくらいだろうか、寝ていると遠くの方からゴロゴロと聞こえてきた。と思う間もなく雷の音がひっきりなしでするようになった。襖が開き、浴衣を着た夫人が蒼白な顔で立っていた。「私、雷駄目なの隣で寝ていい?」駄目だといえるような雰囲気ではなかった。自分の布団を押して動かそうとする夫人の浴衣の裾が割れ白いものがみえた。 緒方の横に布団を敷き直し床に入った夫人は「手、繋いでね」といいながら手を伸ばしてきた。その時、近くに落ちたように大きな音と雨戸の隙間から光が見えた。夫人は緒方に悲鳴を上げながら抱きついてきた。女性のからだの柔らかさをはじめて知ったような気分の緒方は困ってしまった。自分の状態を夫人に知られたくないと思っていたのに、これではすぐにばれてしまう。 夫人も気付いたようだった。「これで嫌われる」緒方はそう思ったが夫人はこれまでの明るいかわいらしい緒方の知っている笑顔と違うこれまで見たこともないようないような微苦笑の様な表情になり「感じてくれているのね」といいながら緒方の下着の中に手を入れてきた。気が付くと緒方の下着は脱がされ二人とも前がはだけていた。緒方は自分のありとあらゆるところに明子の唇と舌を感じた。自分がどうなっているのか緒方はもうわからなかった。 それからは緒方が塔矢家に泊まるとき、行洋がいれば離れに、いなければ夫婦の寝室に緒方の布団は敷かれるようになった。 明子の妊娠がわかったのは緒方が高校を卒業した春だった。 父親は行洋か自分か尋ねる緒方に「わからないのよ、産まれてきてから調べるしかないわ」と言っていたが、そのうち「予定日が十二月になりそうなの、あなたは二月にドイツに行っていたでしょ。だから父親はあの人だわ。」三学期は自由登校だったので受験をしない緒方は囲碁振興ミッションの一員として一ヶ月ドイツを中心にヨーロッパを回っていた。はじめての海外旅行だった。入れ替わるように四月には行洋が参加したアメリカへのミッションが一ヶ月あり、そのあいだ緒方はいつものように塔矢邸に泊まっていた。 夜泣きなどで行洋の対局に影響がでてはと言うことで 出産のあと一年近く実家に戻っていた夫人が戻ってきた。行洋はスケジュールの空いている日は極力妻の実家に通っていた。 緒方のおそれている日が来てしまった。行洋が留守になる日。前と同じように留守番を頼まれた。師匠から信頼されていると感じた。明子から離れていた一年半の間に彼女が恋しくなることもあったが、師匠にばれたときのことを考えるようにもなっていた。怖いのは彼女との間のことではない、師匠の信頼を裏切っている自分を知られることだ。 緒方の布団は前と同じように夫婦の寝室に敷かれていた。となりの部屋に自分だけ移ろうとした。だが、浴衣のあわせからほの見える、前より豊かになった白い胸を見、緒方の自制心は崩れてしまった。結局、前と同じ繰り返しであった。穏やかに自分の横で眠る黒髪を見ながら憶えたのは満足感と軽い後悔だった。そのことに自分でも驚いていた。 四十を過ぎて産まれた娘アキラを行洋は溺愛し、家にいる間は緒方と検討をしている間も側に置きたがり、首がすわるようになるといつも膝の上に抱えていた。たが、いかんせん忙しすぎた。幼稚園・学校の行事がある日曜日はほとんど仕事でスケジュールが埋まっていて参加できなかった。代理として出席した緒方は行洋のためにビデオを撮り、父親の代理として競技に参加したりと大変だった。 アキラも行洋を慕ってはいたが触れ合う時間が少ないせいか嫌われることをおそれて甘えることができず、その代わりのように緒方に甘えた。年に二度の家族旅行もアキラの頼みで緒方も同行するようになっていた。温泉などに行ってもアキラは緒方と風呂に入りたがり、夜も別に取った緒方の部屋で休みたがった。娘に「NO」が言えない父親は苦虫を噛みつぶしたような顔で「緒方くん頼む」と言うしかなかった。娘との時間をとれずにいた行洋に指導碁をするという提案をし、アキラに囲碁を教えたのは緒方だった。行洋のいない朝にアキラと碁を打つのも緒方であった。寝物語に明子に聞いた話しではアキラと緒方の関係は自分と行洋の関係にそっくりで、だから行洋は仕方ないと思っているのよ、と言い。また自分が幼稚園でお多福風邪をもらってきたときは行洋にうつしてしまって大変だったという思い出話もその時していた。 十歳を過ぎた頃からアキラの体型が少しずつ丸みを帯びてきた。アキラ本人は自分の身体の変化をあまり気にしていなかったが緒方のとまどいは大きかった。もし、自分の娘だったら開き直って成長を喜んだかもしれない。だが、アキラが十一歳の誕生日いつものように塔矢家に泊まることになりアキラに引きずられるように一緒にお風呂に入ろうと言われ服を脱ぎはじめたアキラに緒方は欲情しかけてしまった。このときは、自分を押さえたが自分の自制心を緒方は信用していなかった。 明子との関係はまだ続いていた。アキラの目もありアキラが学校に行っている午前中、アキラがそう滅多にゆかない離れを使っていた。緒方から見て明子は二人いるような気がする。家族といるときの明るく、無邪気な明子。自分と二人でいるの時の妖しいまでに美しい明子。師匠はこの明子を知っているのだろうか。師匠への嫉妬に苦しみ明子から離れようと他の女とつきあったこともある。だが、結局いつも明子の元へ戻ってしまった。 明子のアドバイスもあり緒方はアキラとの間に意図的に溝を作り始めた。その頃だったろうかアキラが明子に自分が男だったら緒方は離れていかなかったのかと訊いたのは。気が付くとアキラは男物の服ばかり着るようになっていた。学校の制服はさすがにあきらめたようだったけれど。 全てを変えたのは行洋の心臓発作だった。 棋士として、努力と研鑽はかかさなかったつもりだ。師匠の後を追ってやっとおぼろげながら背中が見えてきてのタイトル挑戦だった。その最中(さなか)の不戦勝、そしてあの美しい棋譜。第五局で自分が勝ったのは変化しようとする師匠の不安定さをついただけに過ぎないことを緒方は自覚していた。自分との対局前、師匠はあれだけ美しい棋譜を残しているのだ。自分があの「sai」ほど強ければ同じように美しい棋譜を残せたかもしれない、師匠との間に。師匠はこの一局を最後に日本棋院をでてしまった。 アキラは自分を追ってきていた進藤が不戦敗を続けているせいか精神的に不安定な状態だった。明子は海外を飛び回る夫のことも心配していたが娘の状態が不安で日本を離れることができなかった。緒方も、アキラの状態にハラハラしていた。やがて、進藤が復帰し、アキラが安定すると明子は夫の元へ行ってしまった。明子と緒方の間も自然消滅していた。 緒方は緒方なりにアキラを見守り続けた。直接会うことは避け、師匠の碁会所にアキラのいない時間を見計らって顔を出し、市河や芦原に探りを入れたりもした。進藤をこの碁会所に連れてくるようになってからは特に問題はないようだった。 その話を聞いたのは第一回の北斗杯の直後だった。メンバーだけで合宿をしたときいて緒方は自分の顔を引きつるのを感じた。それでも、アキラ本人に問いただすことができず、もう一人の社とかいうのは大阪へ帰ってしまっていたので進藤を呼び出した。合宿のことを問いただす緒方に「本当だったんだ、塔矢に手を出すと緒方先生に呼び出されるっていうのは。」こんな事をしたのは師匠の入院中にアキラが参加した研究会の奴らにだけだがそんなことはどうでもいい。 とりあえず、女一人に男二人だけではなかったと聞いて安心した。あの歳頃の男の自制心なんて信用できない。そのことを身をもって知っている緒方であった。 翌朝、緒方はインターフォンの音で目を覚ました。寝ぼけ眼でモニターを見ると映っているのはアキラであった。慌ててエントランスのドアを開け、玄関の鍵を開けた。小学生の頃、塔矢夫妻が出かけるときなど当時住んでいたワンルームマンションにアキラを預かることはよくあった。だが、二つ目のタイトルを取ったあと引っ越してきたこの部屋にアキラが来ることは無いと思っていた。それでも捨てられずにいたアキラ用のマグカップを用意し、自動的にスイッチを入るようにしてあるコーヒーメーカーにコーヒーができていることを確認し、電子レンジで母親が作り置きしてくれた炊き込みご飯の握った物を解凍し、アキラを玄関で待った。アキラが怒っているのはわかったが心当たりは昨日進藤に訊いたことくらいしかなかった。 顔を見たとたん何か言いたそうなアキラを制して「玄関先では近所迷惑になるから入ってくれないか」というとアキラは素直に部屋の入ってきた。また、見ない間に背が伸びたようだった。まだ成長期の十五歳だと思う。居間に案内し、カフェオレと炊き込みご飯を出し「すまないが着替えてくるので待ってくれないか」言って寝室へ戻った。 冷静になろうと冷水でシャワーを浴び、ひげを剃り、いつもより時間をかけ服を選び着替えた。 居間に戻るとアキラはマグカップを抱えたまま泣いていた。思っても見なかった事態に緒方が駆け寄り手を伸ばそうとするとアキラはその手を払いのけ、その美しい瞳から涙を流し続けながら「何で、放っておいてくれないんですか。お父さんも、お母さんも緒方さんも私を捨てたんだから。やっと、一人で生きて行ける覚悟ができたのに。何で私のことを私にじゃなく、進藤や、市河さんや、芦原さんに訊くんですか。もう、私のことなんて気にしないで下さい。」 思い返せば自分が十五歳の頃はまだ親に甘えていた。親が家を出てゆくなんて考えてもいなかった。今でも母は独身の兄と自分のところへ二週に一度は来て、世話をしてくれている。共働きの弟夫婦のところへも頼まれれば子どものお迎えや病気の時には横浜の奥から千葉まで行っている。でも、現実にアキラの親は十五の娘を残し家を出てしまった。人に甘えることを良しとしないこの娘が甘えることができるのは両親と自分しかいないのに三人とも手を離してしまった。 もう、降参だった。先生に駄目だと言われても、破門されてもアキラの手を離すことはできない。 塔矢夫妻の許しを得て緒方の部屋で一緒に暮らすようになると、アキラは最初のうちは緒方がどこかへ逃げてゆくのでは心配しているようで寝るときも自室にいたはずなのに朝起きると緒方のベッドに潜り込んで寝ていた。起きているときも緒方のあとをついて回り(トイレと風呂は勘弁してもらった。)、外出先にまでついてくるようになった。一時は棋院でも話題になっていたようだがアキラが落ち着いてくるとベッドに潜り込んでくる以外緒方のあとをついて回るのをやめた。 アキラの服装も替わってきた。対局にゆくときは今までのようにスーツだが家の中では柔らかい、女らしい服を着るようになっていた。 十二月も半分をすぎ、アキラの誕生日を迎えた。イタリアレストランからデリバリーしてもらったディナーとケーキで二人だけのバースディパーティーだった。緒方からのプレゼントはいつもアキラがスーツを仕立てているテーラーに相談しながら注文したワンピースであった。 アキラと暮らしはじめてから、緒方は自制心を保つため、酒を断っていた。だが、今日はデリバリーに付いてきたワインを一杯ずつアキラと飲んだ。 久しぶりのアルコールは心地よい気分だった。ベッドに入り眠りにつこうとするとドアが開いた気配がした。いつものように潜り込んで横で寝るだけだろうと声も掛けなかった。だが、アキラは何も身につけずにいてその甘い声で「緒方さんが欲しい。」と言い、緒方に抱きついた。緒方はアキラの腕を放そうとしたが、アキラの真剣な目を見てしまい、体は正直に反応してしまっていた。 背中から腰への美しいラインが母親そっくりだった。いままでそんなに似ているとは思っていなかったのに。穏やかに自分の横で眠る黒髪を見ながら憶えたのは満足感と軽い後悔だった。そのことに自分でも驚いていた。いままで躊躇していたことが間違いだったのではないか、そう思った。だが、アキラはまだ十六歳なのだ、これから誰かと出会うのかもしれない。その時、自分の存在が障壁とならないように、そしてアキラが幸せになってくれればいいと願わずにいられなかった。 三月、人間ドッグへ行くため保険証を入れておく引き出しを開けた。上に載っていたアキラの保険証を持ち上げると間から滑り落ちてきた物があった。何も考えずに拾うとそれは母子手帳であった。 |
2006 年 12 月 25 日作成
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