きっかけ |
緒方にとって塔矢アキラは囲碁の世界では自分の後ろにぴったりと張り付いて、肩に手を掛けられたそんな気持ちを持っていたが、日常の中ではそれこそ産まれたときから知っていて、おむつ変えたこともある、学生時代小遣い稼ぎにバイトで子守もしたこともある、本人は中学を卒業したばかりのくせに大人のつもりでいても実際がまだまだ子どもの、甥のような、歳の離れた従弟のようなそんな存在つまりは恋愛の対象にしない、ではなく範囲外すぎて考えもしない存在だった。 だからその日もアキラと碁会所ではじめた師匠の中国リーグでの棋譜の検討が終わらず碁会所をしめる時間になってしまった時には軽い気持ちで自分の部屋に誘った。碁会所は冷房が効いていたが外は夜になっても蒸し暑く帰ってくるまでに下着が貼り付くほど汗をかいてしまった。家を出るとき25度に設定しておいたのを2度ほど設定を下げ、最近見つけた店のクッキーをトレイに並べてノンカフェインのインスタントコーヒーをアイスにして一緒に食卓に出して着替えてくるまで待ってくれるように言って寝室に引っ込んだ。寝室に鍵を掛けることなど思い浮かびもしなかった。クローゼットからクルーネックのTシャツとフレアスカートを出し、汗を吸った下着の替わりに伸縮性のあるタンクトップを身につけることにしてタンスから出した。身につけていた衣類を全て取り去って深呼吸 したとき、ノックがして寝室のドアがすこし開き、アキラがためらいがちにトイレを借りたいと声を掛けてきた。ドアの前には屏風のようなスクリーンを置いているのでアキラの位置から緒方の姿は見えないはずであったから緒方は一瞬びっくりしたもののリラックスした声でかまわないと応えた。が、アキラの立ち去る気配がなく緒方はいぶかしげに「アキラくん、どうしたの?」と尋ねるとアキラは何も言わずにドアを開けスクリーンをどかし寝室に入ってきた。全裸の緒方は慌ててスカートで身を隠そうとしたがアキラは緒方をベッドへ押し倒し、唇を押しつけてきた。 来年三度目の年女になるにも関わらず独身の緒方であったが、今まで恋愛経験がなかったわけではない。相手から囲碁を取るか恋愛を取るか選択を迫られたときに限ってどういう巡り合わせだか重要な対局が組まれていてその都度囲碁を選んできただけのことだ。育児などに追われてしまっているのか普段勉強していない、そんな女流を見てしまって「ああはなりたくない」そう思ってここまで、女流として初めて七大タイトルのうち二冠を得るところまで上り詰めたのだ。 アキラがのぼせ上がって爆発寸前なのは見て取れた。これを止めることはできないだろう。緒方はあきらめてアキラに身を任せることにした。とにかく一旦爆発させていつもの冷静なアキラに戻ってから今後こんな事をしないように言い聞かせるしかないだろう。 アキラが何かぶつぶつと言っている、耳を澄ませてみると「お父さんじゃなく僕を見て」と言っているようだった。師匠を恋愛対象で見ていたのは恋に恋していた昔々の話しで、いまでは師匠ほど恋愛に向かない性格の人はいないとわかっている。だから、師匠に恋し続けていられる明子夫人は緒方にとって驚異の人であった。だが囲碁の世界では自分はずっと師匠を追って、師匠を見てきた。師匠が倒れる直前、背中の見えるところまで一旦追いついたと思ったが結局また追い抜かれてずいぶん先へ行かれてしまった。アキラは自分が師匠を見ているのを恋愛だと誤解しているらしい。 翌朝、アキラに説教をして帰した。それからもアキラが緒方の隙をねらっているのは感じたが放って置いた。そのうち、同年代の子とつきあうようになれば自分のことなど忘れるだろう。それより今決断しなければならないのは自分の中で育っている命のことだった。前回、四年前はどうしても産める状況ではなく病院へ行こうとした前の日になってそれを悟ったかのように流産してしまった。今回は産もうと思えば産める、年齢から考えるとラストチャンスかもしれない。あとはアキラが子どもをネタに自分に近づいてこないように布石を打たなくては。自分の進むべき道が見えている緒方次子にとって子どもは欲しいけれど男はいらないのであった。 |
2003 年 12 月 06 日作成
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